「絶対に此処に居てよね!動かないでよ」
伊作の鬼気迫る様子に小平太は辟易いだ。
「え……冗談だろ。俺さ小便しに行きたいんだけど」
自分の傍らで布団に包まり昼寝をしようとしている保健委員長は、怪我の手当をし終えるなり唐突に来てと言ったのだ。
普段から些細な手伝いに借り出されるので其れかと隣の部屋へ行くと今度は座ってと言われた。其の手には掛け布団があった。
未だに小平太は此の状況が上手く飲み込めていない。
「尿意なんか気力で如何にかしときなよ」
「どんな無茶振り?其れ」
「僕一人にしたら呪うからね。分かった?」
「じゃあ、此れから俺が保健委員を走って呼びに行くから」
「下級生は呼ばないで。其れは駄目」
「でも俺、小便……」
「おやすみ」
一方的に伊作は会話を断ち切ると身体を丸めた。床が冷たい。
そんなぁと小平太が情けない声を上げた。
伊作には一人此処で眠る事の出来ない忌々しい理由があった。
其れはまだ数日前の出来事だった。
伊作は医務室の隣にある普段は使用されていない部屋で箪笥に凭れ掛かり深く眠っていた。
連日の徹夜で睡眠が大幅に減少しており今日に至っては朝から欠伸が絶えず、目尻から溢れる涙を拭っている程だった。
そんな按配なので医務室での業務の最中、隣の部屋で転寝をしてしまったのも当然と云えば当然の結果だった。
其処は日当りが良かった。況して遅い昼食を摂った後だった。
寝てはいけないと思ったが船を漕ぎ出すと如何でも良くなった。
幾人かの下級生は隣の部屋から戻って来ない委員長に気付くと様子を窺う為に襖からそっと顔を覗かせた。
そうして眠っている彼の姿を見ると互いに口の前に人差し指を立て、忍び足で押入れから薄い掛け布団を引っ張り出すと苦心しながら伊作の身体へと掛けて呉れた。
此処で若干だが意識が覚醒していた。
優しい下級生達の心遣いを嬉しく思い、伊作は顔を綻ばせた。
下級生達は一様に何か良い夢でも見ているのだろうと囁いたので余計に笑みが零れた。
次第に思考が拡散し出す。
身体が其れ程に睡眠を欲していたのだ。
本格的な眠りに陥る前、此の善意ある行為の御蔭で幸福な夢が見られそうだと伊作は微睡みながら思った。
下級生達は何やら密談を行うと暫くして誰も居なくなった。
しかし、そんな経緯を全く関知していない雑渡昆奈門は医務室に遣って来るなり、此の静けさを不審に思い周囲を見渡した。
直ぐに机の上に置かれた書置きを見付けると拾い上げた。
誰の字か皆目見当も付かないが綺麗に書くよう努めたと思われる字は保健委員が全て所用にて不在にしている旨、緊急の場合は近くの誰某教師の部屋に行くよう書かれていた。
雑渡の目が追記で書かれた一文に留まる。
其処には委員長が隣の部屋で眠っているので静かにとあった。
…………寝ているのか?
まさかと中途半端に開いている襖から覗き見ると確かに居る。
箪笥を背に凭れ掛かる身体を傾けている少年は規則正しい呼吸を繰り返していた。其の所為なのだろう、元は身体に掛けていたであろう布団が足元に落ちている。
障子戸からは日光が部屋の奥にまで差し込み明るい。また其の光が少年、詰まりは伊作の身体を暖かく照らしている。
だが、直に日は暮れるのだ。
あんな状態で寝ていては身体が冷える。
朝から春のような陽気とはいえ風だけは凍て付いていた。
雑渡は近寄ると手を伸ばしたが不図思い直し、書き置かれた紙を廊下側の引き戸に設けられた曲がった釘の部分に通した。
此れで暫くの間は誰も此処へは立ち寄らない筈だ。
立て付けの悪い戸を音も無く閉めると伊作の前に屈んだ。
そうして稚い顔で眠る姿を眺めていたが不意に伊作の身体が大きく傾いた。折角、普段見る事の無い寝顔を堪能しているというのに起きられては適わない。
雑渡は倒れそうになった伊作の身体を咄嗟に支えた。
支えている手を其の侭に伊作の横へ胡坐を掻くと、慎重に伊作の身体を自分の方へと下ろした。頭が太腿の上に置かれる。
完全に膝枕をされた状態の伊作を見ると顔を緩めた。
床にある掛け布団を掴み、丸くなった身体に掛ける。
顔は見られなくなったが、結わいている其の髪に触れる。
軟らかい感触かと思いきや存外硬かった。
其れにしてもと雑渡は伊作の無防備さに呆れ果てていた。
こうして居ても少しも目を覚ます素振りが無い。
此処が彼にとって寛げる場所であり、学園は自分を庇護して呉れるという認識を心の奥深くに根付かせている所為だろう。
親鳥である学園が、善法寺伊作という卵の殻が孵化する前に割れぬよう揺籃のような此の巣箱の中で守っているのだ。
ただ、其の親鳥は同時に沢山の卵を抱えていた。
一つぐらい卵を盗んでも好いだろう。
時折湧き上がる想いに耽っていると伊作が寝返りを打った。微かな唸り声を上げながら雑渡の身体の方へ顔を寄せた。
伊作の手が雑渡の袴をまるで縋り付くかのように握り締める。
癖なのだろうかと指を近付けると手を突いてみた。すると掴んでいた袴を離すなり今度は此方の指をきゅうと握る。
あ。此れは拙いな。
自らが招いた事とはいえ息が指に掛かる。
何かを呟きながら伊作が指を布団の中へと引き寄せ、空いている手で雑渡の袖を掴むと指から両手で腕を抱え込んだ。
斜めに前屈みになった身体で如何して呉れようかと思案した。
今居る手の位置は布団と彼の身体から察するに相当際疾い。其れに指先は既に衣服に触れている。
此の侭、指で弄って喰べてしまおうか……。
淫靡で嗜虐な感情が舌舐りをしながら今かと待ち構えている。
しかし動かすよりも早く伊作の瞼が薄らと開いた。
瞬きをすると視線が掴んでいる腕から雑渡に移り、また掴んでいる腕に戻ると途端に跳ね起きた。
「やあ、おはよう。良く眠れたかい」
声を掛けると絶句している伊作の顔が真っ赤に変わった。
羞恥からなのだろう。耳まで赤くして顔を伏せる様子は色気があり大いにそそられたが、噯気にも出さず雑渡は伊作を眺め続けた。
「其処で何してんだ?伊作知らないか?」
「訳は後で話すから俺が戻るまで此処に居て!」
医務室から留三郎の声がするなり小平太は助けを求めた。
「頼み事なら其れらしく言え」
留三郎の後ろから仙蔵が顔を出す。小平太は頭を張り巡らせた。
「憚りながら拙者、尿を前にさと馳せ懸く」
「相仕った。暫時其の役目引き受けよう」
「有難き幸せっ」
言い終わらぬ内に小平太は医務室の外へと駆け出していった。残った二人は眠る伊作の近くへと腰を下ろした。
「漏らさないと好いが……」
「そんな深刻な顔するなら何も言わさず替わって遣れよ」
沈痛な面持ちの仙蔵に留三郎は言葉を返す。二言三言遣り取りをしていると小平太が爽やかな表情を浮かべて帰って来た。
「お前、何処で用足した?」
厠から医務室に戻るには速過ぎるので留三郎が問う。
「俺の膀胱川が氾濫寸前だったから庭の植え込みに放水した」
「……立ち小便するなよ。何歳児だよ」
「手を洗ったのか?小平太」
「十五歳児です。あと手は拭いたぜ、仙蔵」
明らかに彼の言う拭いたものは袴に違いないと二人は確信した。
「伊作がさ、寝るから此処に居ろって。下級生は呼ぶなって言うんだけど何でだ?前は気にせず結構寝てなかったか?」
「さあ、知らんな。お留、お前は如何だ?」
「誰がお留だ。そうだな、今後の為に教えるけど伊作の理由はな」
留三郎は二人に事の顛末を語った。
聞き終えるなり小平太と仙蔵は声を上げて笑った。
「だから、こいつ必死になってたんだ」
「災難と言えば災難だが相変わらず抱き癖は残ってるのか」
「最近は滅多に出ないけどな」
「俺でも顔から火が出るくらい恥ずかしいかもな」
「此の場合、掴んだ相手が蛇蝎の如く毛嫌いしている御仁というのが一番手痛い処だな」
「ほとぼりが冷める間は俺達の誰かが召集されると思うぜ」
「……煩いんだよ」
頗る機嫌の悪い伊作の声がした。
三人の視線を集めた伊作が顔だけ向けるなり睨み付けた。
「其の話題、僕の居る前で話さないでよね。逆鱗に触れるよ」
蒸返されたくないので忠告すると伊作は目を閉じたが、三人が忍び笑いをしているのは気配で分かった。腹立たしい気分だった。
留三郎には腕を掴んでいたとしか伝えていない。
よもや、腕を抱き抱えていて更に相手の指が自分のものに触れる
位置だったとは口が裂けても言えなかった。
雑渡昆奈門は指が何処にあるのか気付いていた筈だ。
顔を赤くした自分を見る目付きに悦の色があった。
伊作は此れからの事を考えると呻いた。
ああ……もう、本当やだっ!
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