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版権同人小説ブログ
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「絶対に此処に居てよね!動かないでよ」
伊作の鬼気迫る様子に小平太は辟易いだ。
「え……冗談だろ。俺さ小便しに行きたいんだけど」
自分の傍らで布団に包まり昼寝をしようとしている保健委員長は、怪我の手当をし終えるなり唐突に来てと言ったのだ。
普段から些細な手伝いに借り出されるので其れかと隣の部屋へ行くと今度は座ってと言われた。其の手には掛け布団があった。
未だに小平太は此の状況が上手く飲み込めていない。
「尿意なんか気力で如何にかしときなよ」
「どんな無茶振り?其れ」
「僕一人にしたら呪うからね。分かった?」
「じゃあ、此れから俺が保健委員を走って呼びに行くから」
「下級生は呼ばないで。其れは駄目」
「でも俺、小便……」
「おやすみ」
一方的に伊作は会話を断ち切ると身体を丸めた。床が冷たい。
そんなぁと小平太が情けない声を上げた。
伊作には一人此処で眠る事の出来ない忌々しい理由があった。 
其れはまだ数日前の出来事だった。
伊作は医務室の隣にある普段は使用されていない部屋で箪笥に凭れ掛かり深く眠っていた。
連日の徹夜で睡眠が大幅に減少しており今日に至っては朝から欠伸が絶えず、目尻から溢れる涙を拭っている程だった。
そんな按配なので医務室での業務の最中、隣の部屋で転寝をしてしまったのも当然と云えば当然の結果だった。
其処は日当りが良かった。況して遅い昼食を摂った後だった。
寝てはいけないと思ったが船を漕ぎ出すと如何でも良くなった。
幾人かの下級生は隣の部屋から戻って来ない委員長に気付くと様子を窺う為に襖からそっと顔を覗かせた。
そうして眠っている彼の姿を見ると互いに口の前に人差し指を立て、忍び足で押入れから薄い掛け布団を引っ張り出すと苦心しながら伊作の身体へと掛けて呉れた。
此処で若干だが意識が覚醒していた。
優しい下級生達の心遣いを嬉しく思い、伊作は顔を綻ばせた。
下級生達は一様に何か良い夢でも見ているのだろうと囁いたので余計に笑みが零れた。
次第に思考が拡散し出す。
身体が其れ程に睡眠を欲していたのだ。
本格的な眠りに陥る前、此の善意ある行為の御蔭で幸福な夢が見られそうだと伊作は微睡みながら思った。
下級生達は何やら密談を行うと暫くして誰も居なくなった。
しかし、そんな経緯を全く関知していない雑渡昆奈門は医務室に遣って来るなり、此の静けさを不審に思い周囲を見渡した。
直ぐに机の上に置かれた書置きを見付けると拾い上げた。
誰の字か皆目見当も付かないが綺麗に書くよう努めたと思われる字は保健委員が全て所用にて不在にしている旨、緊急の場合は近くの誰某教師の部屋に行くよう書かれていた。
雑渡の目が追記で書かれた一文に留まる。
其処には委員長が隣の部屋で眠っているので静かにとあった。
…………寝ているのか?
まさかと中途半端に開いている襖から覗き見ると確かに居る。
箪笥を背に凭れ掛かる身体を傾けている少年は規則正しい呼吸を繰り返していた。其の所為なのだろう、元は身体に掛けていたであろう布団が足元に落ちている。
障子戸からは日光が部屋の奥にまで差し込み明るい。また其の光が少年、詰まりは伊作の身体を暖かく照らしている。
だが、直に日は暮れるのだ。
あんな状態で寝ていては身体が冷える。
朝から春のような陽気とはいえ風だけは凍て付いていた。
雑渡は近寄ると手を伸ばしたが不図思い直し、書き置かれた紙を廊下側の引き戸に設けられた曲がった釘の部分に通した。
此れで暫くの間は誰も此処へは立ち寄らない筈だ。
立て付けの悪い戸を音も無く閉めると伊作の前に屈んだ。
そうして稚い顔で眠る姿を眺めていたが不意に伊作の身体が大きく傾いた。折角、普段見る事の無い寝顔を堪能しているというのに起きられては適わない。
雑渡は倒れそうになった伊作の身体を咄嗟に支えた。
支えている手を其の侭に伊作の横へ胡坐を掻くと、慎重に伊作の身体を自分の方へと下ろした。頭が太腿の上に置かれる。
完全に膝枕をされた状態の伊作を見ると顔を緩めた。
床にある掛け布団を掴み、丸くなった身体に掛ける。
顔は見られなくなったが、結わいている其の髪に触れる。
軟らかい感触かと思いきや存外硬かった。
其れにしてもと雑渡は伊作の無防備さに呆れ果てていた。
こうして居ても少しも目を覚ます素振りが無い。
此処が彼にとって寛げる場所であり、学園は自分を庇護して呉れるという認識を心の奥深くに根付かせている所為だろう。
親鳥である学園が、善法寺伊作という卵の殻が孵化する前に割れぬよう揺籃のような此の巣箱の中で守っているのだ。
ただ、其の親鳥は同時に沢山の卵を抱えていた。
一つぐらい卵を盗んでも好いだろう。
時折湧き上がる想いに耽っていると伊作が寝返りを打った。微かな唸り声を上げながら雑渡の身体の方へ顔を寄せた。
伊作の手が雑渡の袴をまるで縋り付くかのように握り締める。
癖なのだろうかと指を近付けると手を突いてみた。すると掴んでいた袴を離すなり今度は此方の指をきゅうと握る。
あ。此れは拙いな。
自らが招いた事とはいえ息が指に掛かる。
何かを呟きながら伊作が指を布団の中へと引き寄せ、空いている手で雑渡の袖を掴むと指から両手で腕を抱え込んだ。
斜めに前屈みになった身体で如何して呉れようかと思案した。
今居る手の位置は布団と彼の身体から察するに相当際疾い。其れに指先は既に衣服に触れている。
此の侭、指で弄って喰べてしまおうか……。
淫靡で嗜虐な感情が舌舐りをしながら今かと待ち構えている。
しかし動かすよりも早く伊作の瞼が薄らと開いた。
瞬きをすると視線が掴んでいる腕から雑渡に移り、また掴んでいる腕に戻ると途端に跳ね起きた。
「やあ、おはよう。良く眠れたかい」
声を掛けると絶句している伊作の顔が真っ赤に変わった。
羞恥からなのだろう。耳まで赤くして顔を伏せる様子は色気があり大いにそそられたが、噯気にも出さず雑渡は伊作を眺め続けた。
 
 
「其処で何してんだ?伊作知らないか?」
「訳は後で話すから俺が戻るまで此処に居て!」
医務室から留三郎の声がするなり小平太は助けを求めた。
「頼み事なら其れらしく言え」 
留三郎の後ろから仙蔵が顔を出す。小平太は頭を張り巡らせた。
「憚りながら拙者、尿を前にさと馳せ懸く」
「相仕った。暫時其の役目引き受けよう」
「有難き幸せっ」
言い終わらぬ内に小平太は医務室の外へと駆け出していった。残った二人は眠る伊作の近くへと腰を下ろした。
「漏らさないと好いが……」
「そんな深刻な顔するなら何も言わさず替わって遣れよ」
沈痛な面持ちの仙蔵に留三郎は言葉を返す。二言三言遣り取りをしていると小平太が爽やかな表情を浮かべて帰って来た。
「お前、何処で用足した?」
厠から医務室に戻るには速過ぎるので留三郎が問う。
「俺の膀胱川が氾濫寸前だったから庭の植え込みに放水した」
「……立ち小便するなよ。何歳児だよ」
「手を洗ったのか?小平太」
「十五歳児です。あと手は拭いたぜ、仙蔵」
明らかに彼の言う拭いたものは袴に違いないと二人は確信した。
「伊作がさ、寝るから此処に居ろって。下級生は呼ぶなって言うんだけど何でだ?前は気にせず結構寝てなかったか?」
「さあ、知らんな。お留、お前は如何だ?」
「誰がお留だ。そうだな、今後の為に教えるけど伊作の理由はな」
留三郎は二人に事の顛末を語った。
聞き終えるなり小平太と仙蔵は声を上げて笑った。
「だから、こいつ必死になってたんだ」
「災難と言えば災難だが相変わらず抱き癖は残ってるのか」
「最近は滅多に出ないけどな」
「俺でも顔から火が出るくらい恥ずかしいかもな」
「此の場合、掴んだ相手が蛇蝎の如く毛嫌いしている御仁というのが一番手痛い処だな」
「ほとぼりが冷める間は俺達の誰かが召集されると思うぜ」
「……煩いんだよ」
頗る機嫌の悪い伊作の声がした。
三人の視線を集めた伊作が顔だけ向けるなり睨み付けた。
「其の話題、僕の居る前で話さないでよね。逆鱗に触れるよ」
蒸返されたくないので忠告すると伊作は目を閉じたが、三人が忍び笑いをしているのは気配で分かった。腹立たしい気分だった。
留三郎には腕を掴んでいたとしか伝えていない。
よもや、腕を抱き抱えていて更に相手の指が自分のものに触れる
位置だったとは口が裂けても言えなかった。
雑渡昆奈門は指が何処にあるのか気付いていた筈だ。
顔を赤くした自分を見る目付きに悦の色があった。
伊作は此れからの事を考えると呻いた。
 
 


ああ……もう、本当やだっ!

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其の日、医務室は静まり返っていた。いや正確には重苦しい沈黙が部屋を包んでいた。
如何したものかと数馬は渦中の人物に視線を走らせ、あぐねいた。
すると目の前に広げた大きな紙に一学年下の左近が大丈夫ですかと書き付けたので頷く。
紙の中央には本日の緊急事態と書かれており、下には喜法寺伊作とある。
字が違う。数馬は此れを書き付けた伏木蔵を見ると善と書き直した。
さて困ったな。如何しようかな?
緊急事態とは医務室の机、普段なら温和な保健委員長である伊作が居る場所で日誌を捲っている人物。
図書委員長の中在家長次其の人だった。
突然医務室に訪れるなり一枚の紙を此方に渡して来た。
其処には非常に読み易い丁寧な伊作の筆跡で委員長を本日のみ交換する事。交換した事により別の委員長の視点から内部の視察また委員との交流をする目的、其れに伴い限定で権限の移譲が記されていた。
要は傍迷惑な最上級生の提案に下級生が振り回される羽目になる。数馬はそう理解した。
しかし流石は不運と称される委員会だ。因りによって一番合わない人物が委員長になるとは。
………悪いけど、此の人は此処向きじゃないんだよな。
医務室は怪我や病気などを受け入れる部屋だ。当然、訪れる者は混乱したり不安に陥ったりしている。
其の感情を落ち着ける為にも此の部屋は穏やかで過ごし易い雰囲気でなければいけない。
善法寺伊作は居るだけで其の雰囲気を醸し出す事が出来る此処に適した人物だ。
だが、対する中在家長次は物音一つ許さない厳格な図書室最強の番人。真逆だ。
御蔭で先程から医務室に来た者が緊張して小声で話す、沈黙に耐えられず早々に出て行く、中には中在家が居ると分かるなり身体を竦ませて静かに開けた引き戸を閉めていく者すらいた。
とてもじゃないが仕事にならない。況して此方も彼の雰囲気に呑まれて誰も言葉を発せられない。
困窮した委員達は伊作を呼び戻す為の作戦会議を始めたのだ。
まずは肝心の委員長が何処に居るかが問題だった。
誰かが聞きますかと一年生の乱太郎が書くと一斉に自分へと視線が集まった。
誰にと書こうとして数馬の筆が止まった。
聞く相手の選択など一択しか無い。知っているのは其処で読み耽っている最上級生だ。
そして、一斉に自分へと視線が集まっている。
数馬は嫌な予感を覚えて顔を上げると伏木蔵が身を乗り出して数馬の方の紙に頑張れと書いた。序でに幽かな笑みを浮かべるとグッと握り拳を作ったので、数馬は其の言葉を即座に筆を塗り消した。
スリルがあるからお前が行けと書くなり、伏木蔵が此れはスリルじゃないから嫌だと返された。
先輩が一番年上なんですからと今度は左近が書き付けたので、左近の傍の紙に大きく上級生命令です川西左近が尋ねてくると書いた。左近が上から更に大きく斜線をひく。
あんた年上と消された伏木蔵の横に書かれたので横に年功序列って知ってるかと返した。
おうぼうと伏木蔵が書いたので漢字で書け一年坊主と瞬時に書き付ける。
すると乱太郎が、ここは公平にあみだくじで決めましょうと提案した。
確かに此処で文章による喧嘩をしている場合では無い。数馬は其の提案を受け入れた。
しかし数馬は、一つ重大な事柄を失念していた。
今居る委員の中で保健委員歴が長いのは他ならぬ自分自身だという事に。

数馬が心中で悲痛な声を上げた頃、左門はぼんやりしていた。
別に何もしていない訳ではない。今日も今日とて会計委員の実務が溜まっている。
其れを処理しているのだが如何も気が抜けて仕方が無い。
手元の書類に目を移したが計算を行っても頭が冴えない。遣る気力が湧かない。
其れも此れも多分、代理で来た善法寺伊作の雰囲気の所為と言っても過言ではなかった。
委員長が来ないなと四年の三木ヱ門がぼやいていると彼は現れたのだ。
事情を説明すると委員長の潮江文次郎の書面を見せて呉れた。
立派というか雄雄しい文字で本人の名前と本日行う業務まで書かれていた。
「代理なんで今日一日だけ宜しくね」
微笑みながら挨拶されて左門は嬉しくて溜まらず此方こそと笑った。
今日一日は天国だ。あの怒号が聞こえないだなんて…っ!なんて素敵な日なんだ。
兎に角、此処の委員長は口喧しく細かい指導で評判だった。
左門と名前を呼ばれる度に今度は何の小言言われるのだろうと怯える日々。
其れから短い間とはいえ解放されたのだ。
……喜ばしい筈なんだが、駄目だな此れは。場が弛緩し過ぎてる。
先程からずっと一番前に陣取る一年生が伊作と会話に興じている。私語厳禁の部屋で。
横に居る三木ヱ門も時折会話に入っては笑い声を上げている。手元の紙を見ると進んでいない。
適材適所。
不図そんな言葉が頭に浮かび、左門は口喧しい委員長の存在を思い返した。
厳しく指導するから間違えが減り、怒号が飛ぶので皆目の前の書類に集中するしかない。
彼が此の部屋に足を踏み入れると場が引き締まる。
ああ……何だかんだで結構凄い人なのかもしれないな。あの人。

そんな思考の海に左門が浮かんでいるとは露知らない三之助は長閑な道を歩いていた。
方向音痴故に道に迷って最中では無い。傍に体育委員の面々が居る。
「さてと、山道の点検は終わったな……」
「如何します。本当なら今日の夕飯時まで山の中ですよね」
普段とは違い過ぎる仕事の効率の良さに戸惑い、三之助は年上の滝夜叉丸に声を掛ける。
すると滝夜叉丸は此方にくるりと顔を向けた。彼も戸惑っている。
「此れが通常の仕事なんだが普段のあれに慣れたのか、我々は」
「物足りないですよね」
下から一年生の金吾の呟きに残る四郎兵衛を含めた全員が深い溜息を吐いた。
「慣れって怖いな」
「本当、そうですね」
「僕……クタクタになるのが当たり前だと思ってましたよ」
「私も」
普段とは体育委員長である七松小平太の無茶無謀極まりない思い付きの行動であり、其れに付き合われて予想もしない道を走られてる自分達の事であった。
其の暴君委員長は本日別の委員長となり出掛けている。
代わりに来たのは厳格な会計委員長、潮江文次郎であった。
彼は来るなり書面を渡しながら細かく分かり易い説明をして呉れた。
「そういえば……七松先輩は何処の委員長になったんですかね」
味のある字というか、滝夜叉丸曰く書き殴りの字で七松小平太と書かれていた書面を思い出していると
「先程点検行く前に尋ねてみたんだが、如何も用具らしい」
「え?」
滝夜叉丸の言葉に三之助は声を上げた。
「用具……ですか?」
「そうだ。あの破壊神が用具に行っているらしい」
体育委員室の押入れに隠された数々の壊された備品が頭を通り過ぎていく。
また壊れちゃったよ…駄目だな、此れ。脆い。
屈託の無い笑顔で言う委員長の顔と同級の用具委員の顔が浮かび、三之助は空を仰ぎ見た。
「如何したんですか、次屋先輩」
「何かいたんですか?」
「いや、用具委員を助けられないから代わりにせめて空に願掛けしようかなって思って」
「殊勝な心掛けだがな、三之助。空に祈って如何する。其処にある祠にしとけ」
「あ、はい」
「先輩……どっち行くんですか。こっちですよ」

三之助が熱心というか無心で拝んでいる願いの先に居る作兵衛は全身から血の気が引いていた。
「という訳で分かったな?富松」
「ええまあ」
分からないのは何故此処に此の人が来ちゃったのかだよ。
保健委員じゃないんだぜ、用具は。……そうか、食満先輩も不運なんだっけ。
善法寺先輩とはまた違う災難に巻き込まれ易いとか聞いたな。
なんて、簡単に納得出来るかっ!!
「あの、此れって如何やって決めたんですか?」
「各委員長が誰を自分の代理にするか籤引きで決めた」
「あー……成る程」
籤引きじゃ駄目だろ。結果がこうなっても何か納得出来ちゃうじゃないか。
其れはそうと作兵衛は手元にある書面を見詰めた。
達筆な其れでいて何処か神経質な委員長本人の文字で小さく一文が添えられていた。
其処には一言、用具死守とある。
目の前には用具から恐れられている破壊神。後ろに控えている委員は全員一年生。
切実な想いを存分に込められた委員長の一文。託されたのは三年生の自分。
…………重い。此れ、重過ぎるだろ。
だけど、と作兵衛は思う。
常日頃から委員長が深夜まで修復作業や点検を行っているのを作兵衛は知っている。
若し仮に此処で損害が発生した場合、彼は大丈夫だと慰めるに違いない。
負担は全て何時でも委員長である彼が他の委員の分まで担っているのだ。
少しでも其れを軽減させたい。其の為には代理委員長を只管遠ざけねば。
此処が踏ん張り処だぜ、俺。
「其れで何したら好い、用具の使用感でも試すか?」
「いいいいいいいですから!其れは俺が遣っておきますんで…ええと」
作兵衛は後ろで全く会話に参加しようともしない一年生を呼び付けて、好いかと伝えた。
「何時も同じように。同じようにだぞ、食満先輩と。学校中の点検箇所を案内してさし上げろ」
はぁいと間延びした返事の一年生は七松小平太と手を繋ぎ、出掛けていった。
「よし!此れで多分大丈夫だっ」
喜三太は道中にある蛞蝓が居る箇所になると中々進もうとはしない。
しんべヱは途中で必ず空腹を訴え、半べそをかく。
平太は大人しいとはいえ何故か常に委員長の袴を掴んで歩くので走れない。
如何にかなれば好い!というか、なれよ!本当……お願い。頑張って、一年生。

作兵衛が奮闘している頃、とうの食満留三郎の問い掛けに藤内はしどろもどろで弁解していた。
というのも理由は非常に簡単で横に居る四年の喜八郎が答えてしまっていたからだ。
普段は何をしているんだと聞かれれば、何もしてません。
用具の点検作業があるだろうと聞かれると、ああそうでしたね。
委員長の立花は仕事しているかには、してません。
では何をしているんだ、あそこで眠っています起きても自分の好きな事して寝てます。
す、少しは包み隠して……っ、綾部先輩!
「という訳でして、決して僕達作法委員は仕事してない訳じゃないんです!」
「うん。お前が一生懸命仕事の内容を説明してくれるのは有り難いが…其の、な」
歯切れの悪い口調で言うなり、留三郎は寝てるぞと喜八郎を指差した。
見ると確かに無責任な先輩は正座をした侭、船を漕いでいる。
すうぴいと可愛い寝息までたてて。
「ちょっ、人に説明させておいて何寝てるんですか!起きて、先輩っ」
がくがくと揺すると眠たそうに瞼を開くなり
「藤内の声って子守唄みたいだねぇ。凄い眠くなる……おやすみなさい」
そう言い終えると再び瞼を閉じた。
部屋の隅で伝七と手遊びに興じていた兵太夫が、あーあーと小さな声を上げた。
はいと伝七が手を挙げる。
「仕事内容の視察ってありますけど此処の仕事が増えるんですか?」
「其れは…如何だろうな。此間の予算会議で用具から仕事を作法に回すって話が出たけど、あれは予算が欲しいから出た提案であって、此処の委員長が遣りたがると思うか?」
「立花先輩はとっても素晴らしい見習うべき先輩の一人ですが……遣りたがらないと思います」
最後の方は蚊の鳴くような声で伝七が答えたので藤内は苦笑した。
「しかしあれだな…委員長の仕事をもう少し真面目にするようには報告しとかないとな」
留三郎の言葉に藤内は床に広げられた書面に面倒臭そうに書かれた立花仙蔵の文字に視線を落とす。
普段は確かに其処で寝ているだけで、時折起きては一年生を玩具にして遊んでいる。
凡そ仕事という仕事もしないし、何処かに出掛けてしまう事も度々だ。
其れでいて、此処に居る皆が彼を慕い頼りにしているのもまた事実だった。
困っていると何時の間にか傍に来ていて的確な助言をしてくれる。揉め事になれば必ず矢面に立つ。
時折起きると面白い話など博識な話題を聞かせてくれる。
……立花先輩は居るだけで充分委員長の仕事をしているのかもしれない。
「あの、此の侭で好いんで報告しないで下さい」
「そうか?」
「僕達、困ってないんで」
藤内がそう言うと兵太夫が後ろから抱き付いて、そうですと元気な声を上げた。

そんな藤内の言葉とは裏腹な意見を孫兵は図書室で抱いていた。
あの先輩、困るな。図書委員長は何処?
図書委員長の姿は見受けず代わりに作法委員長の立花仙蔵が其処に居た。其れは好い。
問題は先程から絶えず罵り合いをしている事だ。
彼と対峙している五年の鉢屋三郎が受付の机に手を置いた。ぎしりと机が鳴る。
「詰まり委員長交換で貴方が図書委員長の権限を譲渡されたのは分かりました」
「漸く分かったのか。時間の掛かる残念な頭だな、お前」
「残念なのは貴方の頭だ。好いですか?委員長の権限を譲渡されたとはいえ……何で、あんたの肩を雷蔵が揉まないといけないんだっ」
「私の肩が凝っているからだ!」
論点がずれてるんだよ、先輩方。
当初は委員長交換という極一部の上級生による勝手な行為についての追求だったが、何時しか論点は立花仙蔵の後ろに居る不破雷蔵に絞られていた。というよりも鉢屋三郎にとっては其れが最重要なのだろう。
「あんたが自分で揉めば好いだろう。そうでもなきゃ、あんたの相方に揉ませろよ」
「文次郎は下手糞だから嫌だ。其れに不破が上手いと評判じゃないか」
「其れなら溜まっている血を出して肩凝り治せば好いじゃなんですか?ほら、其処に生物委員も居る」
指差された孫兵は低次元な問題に巻き込まれて陰鬱な気分になった。
「伊賀崎孫兵」
「……………はい」
「お前、蛭は飼ってるか?飼っていたら、是非此の立花先輩の肩に蛭を置け」
「………大事な蛭をですか?」
「そうだ。蛭に溜まった血を吸って貰えれば……」
鉢屋は其処で立花の顔を見るなり、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「肩凝りなんて消し飛びますよ」
「其れは御親切にどうも。だがな……見ろ、あの嫌そうな表情を!」
見ろという言葉につられて幾人かが此方に目を向けたので孫兵はそっと顔を背けた。
「大事な大事な蛭をそんな事に使うなんて、可哀想じゃないか。酷い上級生だな」
「あんたが言うなよ。権限使ってどうせ無理矢理に揉ませたんだろ」
「何を言う。私はちゃあんと頼んだぞ。なあ、雷蔵」
話を振られた不破はええともああとも付かない声で返事をした。
孫兵は背中からでも分かる程に鉢屋が強く怒気を孕み出したのを感じ取った。
「……………あんた、今何て呼んだ?」
「ら・い・ぞ・う」
対する立花は乙女のような可愛い仕草で言うなり、あっはっはと豪快に笑った。
「こう見えて私と不破は仲良しなんだぞ。なあ?」
「あーはい」
「絶対違うね!明らかに困ってるじゃないか。そうだろ、雷蔵?」
「うん、そうね」
ぎゃあぎゃあと続く罵り合いに孫兵は図書委員長の戻りを切望した。
何故、静かにする必要が図書室にあるのか。何故、委員長が入室者に厳しく其れを示すのか。
今此処に居る全ての生徒が其の必要性を改めて感じ入っていた。
本に集中出来ないからだ。
二人の争いの原因である不破は既に諦めているのか黙って肩揉みをしている。
孫兵は読み掛けの書物に目を遣ると深く嘆息を吐いた。

己の指先が冷たくなって来ているのに気が付いた。
指先だけでは無い。耳も頬も恐らく髪すらも冷えている。
……秋も其れだけ暮れているのか。
平滝夜叉丸は折り曲げる様に屈んでいた身体を伸ばすと其の侭空を仰ぎ見た。
既に上空の色は夜の帳、詰まりは淡い藍の色をした空が拡がっている。しかし視線を少し移動すれば西には太陽が未だ残っており、まるで夕暮れの残骸にも似た色合いが僅かな光を放ちながら山際へと消え掛けている。
其れとは反対の方向に目を向ければ、其処には真白い月が皓々と光を帯び始めていて自分の真上に比べて濃い藍色の空に幾つかの星まで姿を現し出している。
此処には夕暮れと夜の境があった。
「もうじき、暗くなるな」
闇夜が迫り出す火点し時だというのに学園裏にある薄野原に居るのには訳がある。同じ体育委員会の次屋三之助が居なくなったからだ。
そもそも方向音痴で有名な次屋三之助の姿を見失ったのは、委員会の仕事と称される敷地内の走り込みの最中に起きた。
一年生の皆本金吾も居たので薄野原での小休憩を提案した迄は良かったのだが、不図目を離した隙に何処かへ行ってしまったのだ。直に気付いて慌てて其処彼処を探したが見付からず、委員長の七松小平太と金吾に声を掛けて三人掛かりで捜索する羽目に。
 今度から首に縄でも付けとくか?
見当たらないので滝夜叉丸が苦言を言われるかと思われながらも次屋の事を伝えると七松は冗談交じりにそう言って、笑い声を上げた。
此方の気が楽に成る程の豪快さが滝夜叉丸には眩しかった。
「さてと。もう少し向こうまで行ってみるか」
嘆息を吐くと自分の背丈程に生い茂る薄を掻き分けて踏み進む。冷えた山気が強い風と共に吹き付け薄の穂を揺らして行くとざわざわと薄の波音がやけに耳に残った。
先程見掛けた際は西日を受けた薄野原はまるで海のようで風を受けて波打つ光景は美しかった。今はもう、其の面影すら無い。寧ろ何処か薄気味悪かった。
此の音がいけない、と滝夜叉丸は思った。
薄の穂が揺れ動く音はどうも人を不安な心持ちにさせる。
其れと不安になるのは恐らく一人で行動している所為もある。
誰かと居れば問題無いが一人で居ると如何しても妙な想像をしてしまう。例えば薄を掻き分ける手を見知らぬ手に掴まれるなど。
………………駄目だ、止めよう。
ほっそりとした女の手が薄の間からするりと出て来るのを想像してしまい、滝夜叉丸は首を振ると心の怯えを振り払う為に勢い良く更に分け入る。
すると掻き分けた掌に鋭い痛みが走った。
顔を顰めると西へと掌を翳す。空に残った微かな日の光が掌に出来た赤い傷を照らした。
薄は随分と切れ易いから気を付けろと言われたな。
何となく傷を眺めていると風が吹かないのにざわざわと薄の波音がした。耳を澄ますと音は段々と自分の方へと近付いている。先程の想像が頭を掠めていく。
「次屋、か?」
そんな訳は無いだろうと思いながら声を掛けてみた。
音が止まった。
自分の傍近くに居るというは分かったが音では場所が判別出来ない。前後左右に人の気配は全く感じられなかった。視界に映る薄から目を逸らせない。息を、潜めた。
そういえば、自分以外に次屋の名を呼ぶ声がしていないな。
前方から吹き付ける風が滝夜叉丸の髪を掻き乱ていった。 
ぞわりと背中に悪寒が走り堪らなく怖くなった。此処から去ろうと滝夜叉丸が踵を返すと目前の薄の間から突如、人の腕がにゅうと現われた。
「…………っ!」
口から飛び出そうになった悲鳴は身体を竦める事で辛うじて抑えた。
「滝夜叉丸。其処に居たのか?」
聞き覚えのある暢気な声に緊張した身体が弛緩していく。
薄を分け入って出て来たのは七松だった。
滝夜叉丸は安堵を含んだ息を深く吐くと其の名を呼んだ。
「七松先輩……」
「次屋な、向こうの端で見付かったぞ」
「見付かりましたか」
「向こうの端で」
そう言うなり七松は西の方を指差す。背の高い彼が指し示す方へ目を向ける。
生憎、色彩豊かな西空と薄の穂しか滝夜叉丸には見えなかった。
「ぽつんと立っているのを金吾が見付けたんだ。ま、俺が肩車していたからなんだけどな。其れで今度はお前の場所を金吾に教えて貰って迎えに来た訳」
「あ……有難う御座います」
「如何した?顔が呆けてるぞ」
「いえ別に!」
まさか物の怪か何かだと勘違いしていました等と言えない。
慌てて答えると不意に七松の掌が冷たい滝夜叉丸の頬を包んだ。
「随分と冷えてるな、お前」
温かく大きな掌よりも其の掌が七松小平太の掌だという事に滝夜叉丸は酷く狼狽した。滝夜叉丸は七松に或る類の感情を抱いていた。
其の所為で自身でも顔が赤くなるのが分かった程だ。
「あったかいだろう?」
屈託の無い笑顔が自分に向けられた。
西日が逆光になってくれている御蔭で顔が赤くなっている事は見えていない様子に見受けた。滝夜叉丸は仄かに宿る淡く切ない感情を胸の内に押し込み、平常心を盛り戻そうと努めた。
「せ……先輩の体温が高いだけだと思いますよ。直に夜が来ますから金吾も居る事ですし早く学園に戻りましょう」
「そうだな」
先導に立つと滝夜叉丸は薄という海原を掻き分けて渡る。
平常心平常心と心の中で滝夜叉丸は呟いた。
時折、後ろに続く七松が方向を示すので従い進んでいくと漸く視界が開いた。其処には待ち草臥れた様子の金吾と何時もの飄々としている次屋の姿が現れた。
 
 
次屋三之助が振り返ると訝し気に己の掌を見詰める七松の姿があった。無言で此方も其の様子を見ていると目が合った。
「御疲れ様です。如何かしたんですか?」
「ああ……いや、何だろう。うん、好いか。気の所為だな」
何を考えているか三之助は知っている。
薄の野原から出て来た滝夜叉丸の頬が夕焼けのように赤く染まっていて、其れ以後七松の顔を全く見ようとはしない。委員会が終わると同時に直に寮へと帰ってしまった程だ。
「思い過ごしなんかじゃありませんよ」
そう声を掛けると七松がぎょっとした。
「先輩、其れは事実です」
「……お前、何か知ってるのか?」
 困惑している七松に三之助は笑顔で答えた。
「そりゃあ、毎日見ていれば気付きますよ。誰が誰を好きだなんて事ぐらい。滝夜叉丸先輩の目は何時も貴方の動きを追ってます。けれども先輩の目は」
「分かった!分かったからっ、次屋」
先を言わせない為に七松の掌が三之助の口を塞ぐ。
他に誰も居ないのだから気にしなければ好いものを。案外、臆病なのだろうか?
其れとも此の反応が当然の反応なのだろうか。次屋にはよく分からなかった。
塞がれた手が緩んだので三之助は七松から一歩下がった。
丁寧に一礼すると部屋に戻ろうと歩き出した。声が追い掛けて来る。
「毎日見ていたのか」
振り返ると点された灯り火に因り照らされた七松の、其の複雑な表情が見て取れた。
掛けられた言葉の意味を反芻しながら三之助は眺めた。
「先輩。俺、さっき言ったじゃないですか」
「………………」
「毎日、見てるんです。ずっとね」
「誰をだ?」
疑問というよりは確認したいが為に口にしたのだろう。
三之助は少し笑みを浮かべてみた。逆光に居るので七松からは此方の表情が見えていないだろうが一向に構わなかった。
此の問いに対して簡単に答えるのは癪に障ると思った。
そしてそんな想いを抱く自分は目の前の人物に嫉妬という気持ちを持っているのかもしれない事に漸く気付いた。
多分こうゆうのを纏めて固めて引っ繰り返すと片想いというのだろうな。
俺の感情も意外と複雑に出来てるんだな。
三之助はくるりと背を向けると一言だけ返した。
「先輩が向けている視線を此方に向けて頂ければ、直に分かりますよ」
滝夜叉丸の視線は此方に向かない。向こうともしない。
向かないなら向ける為にと三之助は度々己の姿を晦ましてみる。
そうすると、自分を見付けた瞬間だけは此方を向いてくれると知っているから。

▼ 只一言を告げれずに居る二人
「今日は誰も居ないのかい?」
珍しく他に人の気配が無い医務室を眺めながら雑渡崑奈門が尋ねると丁寧に御茶を入れながら善法寺伊作が答える。
「新野先生は所用で不在にして居ます。当番の下級生達は薬草摘みで出掛けて……今日はまだ怪我の生徒も居ないし、病気で寝込んでいる者も居ません」
至って長閑な日ですと言うと注ぎ終えた御茶を雑渡の前に置いた。何時の間にか自分用に用意された湯呑から上等な茶の香りがしており、少し熱い湯呑を持つと翡翠色の茶を眺めた。
「随分と静かだね」
「普段が賑やか過ぎるんですよ。下級生達が戻ってくる暫くの間は僕一人での御相手になりますが……役不足ですか?」
「いや、全く問題無いよ」
頭巾を口元だけずらすと器用に茶を啜った。程好い甘みの味が舌に拡がり、後味として多少の苦味が残る。
「此処で呑む御茶は格別な味だね」
「学園長が取り寄せてる茶葉を特別に分けて貰ってるんです。御客人には此れを必ず出しているんですよ」
別の意味合いを含んだ言葉だったのだが伊作は動じなかった。
鈍い訳では無いのはとうに知っている。これはそうゆう子供だ。
其処が気に入っているのだが。
「今日も学園の近くまで来たから寄ったんですか?」
「そう、偶々ね」
白々しい嘘を吐いても目前に居る少年は顔色一つ変えない。
穏やかな表情でこうして自分と他愛も無い世間話を続ける。
今迄に雑渡が忍術学園の医務室に来訪した際に年上の少年達と顔を合わせる機会が幾度もあった。誰もが当惑した表情で此方と如何接すれば好いのか見当が付かない状況に陥っていた。
伊作と同じ忍び装束の少年達は挨拶を交わすものの用件を終えると足早に医務室を退出して行く。
懐いているのは医務室に居る幼い少年達だけだ。
「伊作君」
「何ですか?」
「私といけない事をしようか?」
反応見たさに湯呑を床に置きながら誘うと伊作が顔を綻ばせた。
「仰っている意味が全く分かりませんね。其れよりも好い加減、僕の事を眺めるの止めて頂けませんか?視線って、結構な暴力なんですけど」
「言っている意味が全く理解出来ないな」
同じ言葉で返すと伊作の鋭い視線が雑渡に向けられた。
しかし年齢が一回り以上も上の雑渡からしてみれば、其の程度の睨みは寧ろ可愛いとすら感じる程度に過ぎない。
「私はね、君に興味が有るんだよ」
顔を合わせた際に雑渡は伊作に忍に向いていないと告げた。すると伊作は事も無げに皆もそう言うと答えたのだ。
忍術を学ぶ学園に居て向いてないと言われたならば、腹を立てたり傷付いたりするのが当然だと思っていたから驚いた。
恐らくは其れが切っ掛けの一つなのだろう。
「無くて好いですよ、興味なんて。迷惑なだけですから」
「折角の好意なんだから受けて呉れても好いんじゃないかな?」
「丁重に御断り致します」
僕にだって選ぶ権利が有りますからと冷たく言い放つ伊作に目を細めると雑渡は一瞬の隙を突いて手首を掴んだ。伊作が抵抗するより其の身体を床へと組み伏せる。
片手で両手首を掴み頭上へと持っていき、足は絡め取り身動き一つ出来ない状態にした。
「何の冗談ですか?此れは」
「冗談だと思う?」
掴んでいる手首に力を込めると伊作の口から息が漏れる。
仰向けにされた伊作の顔色は蒼白になっていたが其処に怯え恐怖といった感情は見受けられない。只、強い怒りが見えた。
本来の彼は激情の持ち主なのだろう。
柔和で穏やかな人柄に徹している此処から其の感情を引き出して、露わにするのは思わず口元が緩む程に甚く愉しい。
更に見ようと雑渡は伊作に優しく問い掛けた。
「例えばの話だけどね?私がこうして君に悪戯をするとするだろう。其れと引換えに他の生徒には一切危害は加えないと約束したら……君は、如何する?」
「詰まり、僕自身と学園皆の命を秤に掛けろと」
「簡単に言うとそうだね」
「そんな約束は守られないと知っているから絶対にしませんね」
揺るぎもしないで雑渡の目を見詰めた侭、伊作は言い放った。
雑渡は瞬きをすると笑い声を上げた。
「君は手強いね。本当に心優しいのなら身代わりになるだろうに」
「満足したなら手を離して呉れませんか?不愉快です」
「小さい子達が戻って来たら困るか」
力を緩めると伊作は起き上がり手首を擦った。
「君は忍になるのかい」
伊作から離れると雑渡は立ち上がった。そろそろ帰る頃合だ。
「此処に居るのだから、そうなる予定ですけど」
「以前、君に忍に向いてないと言ったのを覚えているかな?」
「………………」
「其の君が一体何処の城に行けるのか凄く気になるなあ」
「悪趣味な人だ」
低く唸る様に呟く伊作に微笑むと雑渡は医務室の戸を開けた。
 
学園の敷地外まで戻ると草臥れた部下の諸泉が居た。
「あれ?若しかして待っていたの」
「当然じゃないですか。何で組頭より先に帰れるんですかっ。其れよりも、用事は済みましたか」
「済んでないから、また行かないとね」
「またですか?こんな所に入れ込む理由が分かりません」
「君ねえ……こんな所って言うけど、此処は特異なんだよ」
広大な敷地には立派な建物が何棟もあり傍目には重厚そうな外壁と正門から貴族や武家の屋敷だと思われている。
整えられた設備で徹底的に指導する教師達の多くは、嘗て忍の間で名を馳せた凄腕の持主だ。其れ等を呼び寄せて多大な金を注ぎ込んで学園を作り上げたのは一人の老人だった。
伝説の忍と称される其の老人は忍の里に居る子供では無く、農民や商人武家の子供を選んだ。其処にどんな目的があるのは気にならないが、人脈の広さと金の出処は気になる。
……若し、あの老人が本気になったら城一つ潰すぐらいは造作も無い事だろうな。
そうした場所があるのなら警戒しておいて損は無い。
「しかしまあ、とんだ酔狂だね」
何がですかという諸泉の問い掛けには答えなかった。
いや、答える事が出来なかった。
何か妙な引っ掛かりを感じていた。人としての本能と忍としての研ぎ澄まされた感覚が漠然とした不安で警告を発している。何かが違うと。
其れが何かを探る為に思考を巡らせて漸く解けた時、雑渡の全身からじんわり汗が出た。
部下を其の場に留めると雑渡は医務室へと急ぐ。
迂闊だった。余りにも違和感が無かった。
忌々しい己の愚かさに舌打ちしたい気分だった。
医務室の戸を開けると雑渡は呻いた。其処には誰も居なかった。
薬棚へと目を向けたが施錠が施されている。此の施錠を開けるのは容易いが、問題は解毒に必要な薬がどれかという事だった。
一体……何の毒を飲まされていたんだ?
此処に訪れると必ず二回、最初と最後に御茶を注がれていた。
一杯目には毒を二杯目には解毒薬が仕込まれているものを。
相手が一人なら気付いたかもしれないが、御茶は常に違う生徒により注がれていた。医務室に治療に来た生徒が挨拶代わりに、または医務室の子供達が当番を決めてしていた。
騒がしい子供達が行き来する医務室で此方に不審を抱かれず、毒の御茶を用意が出来るのは彼しかいない。
「あー、雑渡さんだ!」
振り返ると廊下の奥から歓声と共に淡い青の忍び装束を着た子供達が駆け寄って来た。後から薬草を摘んだのだろう、笊を脇に抱えた少年がひたと自分を見た。
悠然と口の端に穏やかな笑みを浮かべている。
「遅いから心配しましたよ」
傍らを通り過ぎて腰に巻いた鍵を開けながら、雑渡に纏わり付いている少年達に中身を縁側に敷き詰めるよう指示を与えた。
またねと手を振るので返すと笊を持って飛び出していく。
「御茶を入れる暇が無いので此の侭で失礼しますね」
「此れは、信用しても好いのかな?」
「学園内での殺人は禁止されていますから大丈夫ですよ。何なら飲んで差し上げましょうか?」
「結構、此れを頂こう」
手渡された頓服薬を握ると雑渡は問うた。
「其れよりも殺せる威力の薬を飲ませた相手に二杯目を出さないのは不親切じゃないかな?」
「貴方程の忍なら気付く筈でしょう?また何時でも来て下さいね。美味しい御茶を煎れて上げますよ、雑渡さん」
そう答えると伊作はにこりと笑い掛けた。

 
其の日は珍しく彼は居なかった。
いや、彼だけでは無く医務室に顔を合わせる子供全てが居なかった。
出払っていると涼やかな声音で告げられたが計られているに違いないと雑渡は感じた。
用意された湯呑には淹れ馴れていないと理由で茶の替わりに白湯を注がれている。
長い艶やかな髪が当人の動きと共に緩やかに肩から流れ落ちていく。
其の様子を眺めていると静かに湯呑を置かれた。湯呑からは湯気が出ておらず大分冷めているようだった。
「君は此間も此処に来た子だね」
此間という問い掛けに視線を天上に向けて暫し黙ると目前に居る相手は嗚呼と声を上げた。
「そうですね。貴方が居る時に一度ですが顔を合わせていますね」
「あの時は横にもう一人、君とは形が異なるけれど美童が居たなぁ」
「食満…ですね。食満留三郎」
そう答えると嫌味な程に整った容姿の少年は雑渡の目線を捉えた。
「アレの相方になります」
「ああ、そうなの」
アレとは誰を指しているか当に見当は付いている。
湯呑に注がれた白湯を一口飲んでみたが、矢張り冷めていた。
「それで?君が此処に居る理由は」
「理由ですか……。率直に申し上げれば、貴方はアレを如何するつもりなんですか?」
「如何するねぇ」
「伊作は自分の領域へ許しを得ずに這入り込む人間に対して手厳しいでしょう?」
「そうだね。彼は私にはとても冷たいね」
「其れに加えて人の好き嫌いが実に激しい」
「うんうん」
「貴方が此処を頻繁に訪れるようになってから、アレは苛立つ機会が増えまして。勿論御存知でしょうが、外見を最大限に利用しておりますので一見には容易に分かりません」
少年は其処まで言うと自分の為に注いだ湯呑に口を付けると口の端に笑みを浮かべた。
何処か面白がっているようにも見受ける笑みだった。
湯呑を置くと、只と言葉を続けた。。
「只、我々には確実に実害が及んでおります」
「成る程。君は私に頻繁に学園には来るなと告げに来たのか」
いいえと少年は首を横に振った。
「私には実害は嘗て一度も有りませんが頼まれまして……貴方も良く存じている者から」
「誰かな?」
「曲者と貴方を呼ぶ奴です」
「あの子か……」
毎回訪れる度に執拗に自分を追い掛けて来る生徒の顔を思い浮かべた。
「頑張り屋だよね、彼は。忘れずに顔を見せてくれるしね」
「奴が私の相方でして、奴の意見に同意した訳でも、貴方が伊作に執着し其れに因り伊作が苛々しようとも私には到底関係有りません。しかし……得体の知らない者が此処に居るのは矢張り不快に感じる」
丁寧な口調を止めた少年は目を逸らさずに雑渡に向けて言った。
揺るがない態度に大したものだと感心した。
仮にも目前に居る忍の実力を知っていながら少年は全く此方に飲み込まれない雰囲気を纏っている。
他の少年ならば目を逸らしたり恐れを抱いたりするものを。
「何が目的か知りたいかい?」
其れでも雑渡から見れば幼い事に変わりは無い。
少年は雑渡の問い掛けにくつくつと笑い声を上げて答えた。
「其れが本当の目的なら…ですがね」
「伊作君がね、堕ちたら愉しいなぁと思って此処数日は来ているよ」
「趣味の悪い御仁だ」
「そうかい?まあ、此れから暫くは忙しいから来ないと思うよ」
「伊作に伝えたら喜びますよ。アレは薬草園に居ますから帰る序でに顔でも見せて上げて下さい」
「有難う」
礼を述べると雑渡は建て付けの悪い引戸を開いた。
がたりと音を上げて戸を潜ると後ろから少年の声が掛かった。
「余り、伊作を突付かないで頂きたい」
途中まで足を進めると雑渡は少年の方へ視線だけ向けた。
「如何しても駄目かい」
愉しいんだけどなと言うと少年は戸口に凭れる。
「アレも私も……此処に居る者は全て未だ卵ですので」
「突付いて割れたりしたら大変だね」
「そんなに繊細な卵では有りませんよ、我々は」
一旦、引戸から身体を離すと少年はまた笑った。
「中は可愛い雛では無く、鵺かもしれませんし……なに、忠告だ。手を出せば痛い目に遭うぞ」
既に一度、毒入りの御茶で多少の手痛い目には遭わされいる。
雑渡は答えずに微笑むと代わりに一言返した。
「君、私の処に来るかい?」
「…………………」
少年は其処で初めて子供らしい表情を浮かべたが直に消えた。
「さあ、まだ何になるか決め兼ねておりますもので」
「其れは残念だな。君みたいな子が居ると面白そうなんだけどな」
「褒めて頂き光栄です」
去り際に名前を尋ねると少年は立花仙蔵と短く答えた。


薬草園に辿り着く手前に雑渡の前に部下の諸泉が現れた。
「やあ」
「やあ、じゃないでしょうが。何時まで居るんですか?帰りますよ」
「医務室の子供達に会ってないから、まだ帰らないよ」
「………組頭、此処が好きなんですね」
「うんそうだね。ほら、帰るとむさ苦しいから此処で安らでるんだよ」
「ああ、そうですか」
部下の嫌味など聞き飽きているので雑渡は薬草園の垣根から声を掛けた。
「久し振り、伊作君」
「昨日も御会いしましたよね?」
此方に目も呉れず栽培されている薬草という名前の毒を摘み、伊作が返す。
「わざわざ生徒の少ない合間を縫って……御苦労様です。暇なんですね」
「そうゆう訳でも無いよ。遣る事は沢山有るし」
「では滞ると大変ですから、御帰りになったら如何ですか」
「帰る前に一目顔を見ておこうかと思って。君の御学友、立花仙蔵君から聞いてね」
「……………仙蔵が?」
名前を聞いた瞬間、伊作は手を止めると訝しげに雑渡を見た。
医務室に居た事を告げると此方に遣って来た。
「彼が医務室に居たんですか?」
「そうだよ。仲が好いんだね、君達は。忠告されちゃたよ」
何をとは聞かずに伊作は袂から変哲も無い白い手拭いを取り出すと雑渡に差し出した。
「此れを」
其の布は見覚えがあった。
後ろに控えている部下の諸泉が動揺したのが分かった。
「中々分かり易い所に隠されていたので簡単だったと言ってましたよ」
誰がとは聞かずに雑渡は笑顔で白い布を受け取った。
此の白い布は数日前に新人育成の為に城の内部に隠したものだった。
……隠したのが部下君だから驚くのは分かるけれど平然としていないとね。
「簡単だったって、部下君」
「え……っ。あ、ああ其れは申し訳有りません」
「私に謝ってもね。此れを持って来たのは立花君なのかな?」
「また違う者になります」
「ああ、そうなの。また違う子なんだ」
若干愉しかった気分が殺がれ雑渡は息を吐いた。
漏れた経緯は調べてみないと分からないが隠したのは二三日前だと報告されている。
其処から昨日迄の間に誰も子供が侵入した事実に気が付かなかった。
実に頭が痛くなる大問題が圧し掛かる。
鵺ねえ……。
先程聞いた言葉が頭に浮かび雑渡は不図思う。
そもそも忍とは鵺のようとも言える。正体が杳として定まらない妖のような存在。
確かに此処の卵から孵る者は可愛い雛ではないようだ。
雑渡は笊の中にある草を仕分けている少年の名前を呼ぶ。
「伊作君」
「何ですか?」
矢鱈と機嫌の良い声で返事をされたので雑渡は苦笑した。
「君達は、鵺の子供だよ」
其の日、会計委員会は普段よりも静寂に満ちていた。
委員長である潮江文次郎の怒号が無い所為だった。非常に珍しい事態と言って過言では無い。
団蔵は隣に居る佐吉と顔を見合わせて首を傾げた。此れで三度目だ。
相変わらず忙しい上に今日は修正作業も著しく多い。
団蔵達が提出した書類も誤字訂正を言い付けられたが其の声は静かだった。
寧ろ覇気が無いように感じたが団蔵と佐吉からしてみれば上座に座る委員長と病気は結び付かない。
病気の方が彼から走り去って行きそうにも見受ける。
三人しか居ない部屋は筆を走らせる音と紙を捲る音しか聞こえなく返って落ち着かなかった。
突如、文次郎は立ち上がると無言で部屋を出た。
厠にでも出掛けたのだろうと二人が思った直後、ごほっと苦しげな声が上がった。
佐吉が何事かと引戸を開けるなり固まった。
「如何したんだよ……」
団蔵は声を掛けながら佐吉の脇から廊下に視線を移し、絶句した。
廊下の窓から身を乗り出して潮江文次郎が庭へと嘔吐している。
げほげほと咽ると苦しそうに喘ぎながら動く事も出来ず呆然と見詰める一年生を見た。
拙い処を見られたと言いたげな表情を浮かべたが直に掠れた声で
「悪いが、水を持って来てくれ」
と告げた。
団蔵と佐吉は其の言葉で弾かれたかのように踵を返し、先を争って湯呑を取りに戻った。
一足先に手に取った佐吉が文次郎へと駆け寄る。
「み、ず…です」
受け取った文次郎は礼の代わりに佐吉の頭に軽く掌を乗せた。
そして湯呑に入った白湯で丹念に口を漱いだ。
全ての水を庭へと吐き捨てると団蔵が泣きそうな顔で自分の湯呑を差し出した。
「大丈夫ですか?水、足りなかったら注いで来ますっ」
「先輩、医務室に行きますか?保健委員呼んできましょうか?」
「いや……大丈夫だ」
佐吉の頭に乗せていた手で団蔵の頭を撫でると文次郎は口の端に笑みを浮かべた。
だが幼い一年生にも無理矢理笑っているのだと分かる笑みだった。
他の上級生が居ない事も災いした。頼る者の居ない事態に二人の心情は既に限界を迎えていた。
「先輩……潮江先輩っ」
「具合が悪いなら早く医務室に……っ!」
「如何した、ちび共」
文次郎の袖に縋っていた二人が背後の声に振り返ると其処には立花仙蔵の姿があった。
団蔵が事の次第を早口で伝えると仙蔵は大丈夫だと伝えた。
「此れから私が文次郎を医務室に送り届けるから安心して仕事を続けていろ」
漸く頼りになる者が通り掛って呉れたので安堵したが蒼褪めた顔の文次郎が不安で堪らない。
団蔵が佐吉の顔を見ると佐吉は黙って頷いた。
「あの、立花先輩」
佐吉が口を開くと文次郎に肩を貸した仙蔵の視線が向けられた。
「僕達も医務室まで付き添って好いですか?」
其の言葉に仙蔵は眉を顰めた。と言っても気を損ねた訳では無く困った様子だった。
「此れはな……さて、如何するか」
「二人だけで此処に残ると心細いし、其れに心配なんです」
「駄目ですか?」
半ば必死で付き添いを申し出た二人に仙蔵は曖昧な笑みを浮かべる。
「薬を飲めば半日もしないで良くなるから此処に残れ…は、納得出来ないか?」
「はい」
「………あのな、これがこんな状態になったのは授業の一環なんだ」
「仙蔵。余計な事を一年に言うな」
唸るような口調で文次郎が仙蔵の言葉を遮ると仙蔵は嘆息を吐いた。
「なら如何しろと。まあ、好い。私はこれと医務室に行く、お前達は此の侭待機していろ。好いな」
有無を言わせぬ物言いに二人は返す言葉を出せなかった。
仙蔵に肩を借りながら文次郎が歩いていく。廊下の角で曲がったのを見届けると二人は部屋へと戻った。
置いてかれた虚しさと文次郎の状態が重なり気分は重い。
静かな部屋に残され仕方無く席に着くと書き途中の紙に目を通した。
先程まで共に過ごしていたが具合が悪いとは気付けなかった事実が余計に気持ちを暗くした。
「不甲斐無いね……」
ぽつりと漏らすと団蔵は袖口で目を擦った。隣にいる佐吉は唇をきつく噛んで頷いた。
「不甲斐無くなんか無いよ」
優しい声が上がった。見ると不破雷蔵が立っていた。
「其処で立花先輩に頼まれてね。他の会計委員が来るまで一緒に居ろって」
三郎が呼びに行ったからもう大丈夫だよと言うなり、二人の間に割って入った。
「吃驚しただろうけど心配しなくて好いんだよ?潮江先輩はね昨夜から胃の調子が悪かったそうだから、其れでもどしてしまったそうで二人には申し訳無い事をしたと伝言頼まれたんだ」
「本当に大丈夫なんですか?凄く辛そうだったんです」
「潮江先輩に付き添うの駄目だって言われて、それで」
「ああ、あんまり大人数で医務室行くと混雑しちゃうからね。其れに潮江先輩は沢山の人が付いて来たら其れだけで怒りそうじゃない?一人で好い!なんて」
物真似なのか低い声で大袈裟に言う雷蔵に二人の心は幾分和らいだ。
似てないですよと団蔵が笑い声を上げると佐吉もつられて笑うと不破先輩と呼び掛けた。
「立花先輩が授業の一環で具合が悪いって言ってたんですが……あれは?」
其の問いに雷蔵は首を捻った。
「さて、何だろうね?立花先輩の言う事だからなぁ…」
「雷蔵。会計委員連れて来たぞ」
「団蔵!佐吉!」
慌てた様子の田村三木ヱ門の後に鉢屋三郎が姿を現した。
一瞬、三木ヱ門は三郎と雷蔵を見た。二人は促すように視線を一年生へと送った。
「用件は聞いたから今日は代理で俺がお前達の面倒見るからな。取り敢えず、今遣り掛けの書類だけでも終らせるぞ。潮江先輩のは……俺が遣るか」
「田村、後は任せたぞ」
「じゃあね、頑張ってね」
そうして未だ不安そうな表情を浮かべている一年生に別れを告げると三郎と雷蔵は廊下に出た。
会計委員会が使用している部屋から大分離れた処まで行くと三郎が深く息を吐く。
「そりゃあ、一年には言えないよな。授業で毒を飲みましたなんてさ」


其の授業は六年生から開始される。
身体に毒の耐性を作る為に自ら取り入れるのだ。
極少量の毒が抜き打ちで生徒に配布または其の場で体験させられる。
今回の物は事前に嘔吐や下痢を齎すと説明を受けていたが毒には個人差が生じる。
酷い者だと立つのも精一杯になる有り様だ。かと言って特に何の変調も表れない者すら居る。
万が一の事態を想定して学園では毒の授業の際、相方と揃って一定の時刻になったら医務室横に設けられた一室まで出向く事が義務付けられていた。
また此れには下級生の前で無様な姿を見られたくないという最上級生の見栄もある。
仙蔵が其の部屋の戸を開けると既に人がごった返していた。
戸を閉めると此方に気付いたのか七松小平太が手を挙げ、傍へと遣って来た。
「文次郎、駄目か」
「そのようだ。今回のは相性が悪いんだろうな……お前は、元気そうだな」
「此れで五連勝」
自慢そうに告げる相手に仙蔵は化け物だなと呟いた。
「ちゃんと飲んでるんだろうな?お前」
「其れ、新野先生からも言われたけど毒に強いみたい。俺」
「羨ましい限りだ。相方は如何した」
「長次なら薬湯飲んで図書室に戻ってった。仕事が残ってるってさ」
「…………成る程。其れは、凄いな」
「仙蔵!随分、遅いじゃないか。心配したよ」
「伊作」
善法寺伊作は駆け寄るなり仙蔵に肩を借りて訪れた文次郎へを見詰めた。
「文次郎、具合は?」
「二度吐いた」
喋るのも億劫なのか面倒臭そうに文次郎が答えると伊作は奥の部屋に行くよう指示した。
其処は重い症状を出た生徒が横になる場所で気休めで飲まされる薬湯ではなく解毒の薬が与えられる。
仙蔵に変わり小平太が文次郎を部屋へと連れて行く。
「下痢はしてないのかな?文次郎」
「其れはしてないみたいだぞ、来る途中に問い質したからな。其れより一年の前で吐いたのを気にしてる」
「あ……其れは気にするよね。一年生も可哀想だな。心配されたんじゃない?」
「後の始末は不破と鉢屋に頼んで来たから問題無い」
「そうなの?で、仙蔵の具合は?」
顔を覗き込まれた仙蔵は涼しい顔で答えた。
「吐き気が多少する程度だ」
「はい、薬湯行きね。其処にあるから自分で注いで飲んでね」
「お前は?」
「僕?全然、全く無いね。其れより忙しくて嫌になるよ」
じゃあねと伊作が奥の部屋に向かうと仙蔵は薬湯は入った鍋の横に腰を下ろした。
部屋を見回すと伊作の相方、食満留三郎と目が合った。
「よう、遅いな」
「お前等が早過ぎるんだ」
仙蔵は空いてる湯呑に薬湯を注ぐと一口飲んだ。苦い味が舌に広がる。
「不味い」
「薬湯が美味くて如何する。我慢して飲めよ」
「伊作にしろ小平太にしろ、ああも身体に出ないとは恐れ入るな」
仙蔵の言葉に留三郎はまあなと相槌を打った。
「俺からして見れば伊作は元々飲んでいたから耐性が出来上がってるけど七松は…凄いよな」
「偶には此方側に来て欲しいものだ」
「此処で暫く過ごしたら戻るんだろう?作法委員長様は」
「委員会の仕事を重なると委員長は容易に席を外せないから参るな、用具委員長?」
「帰ったら修復作業が待ってるんだよな」
「其れは、御苦労様」
会計は今日中に戻れんだろうな…と仙蔵は肩に受けた文次郎の重さを思い出し心中で呟いた。
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