金銀に碧玉や水晶、瑠璃真珠。其れに翡翠や瑪瑙。
夜空にあるあの三日月も
お前が望むなら何でも全て呉れて遣ろう。
伊作。お前は私の掌中の珠だ。
一面の雪景色が視界に拡がり伊作は目を細めた。
教員室に届け物をした帰り道、誰かが開けて行った出入り口の戸の隙間から雪が吹き込み床を白く染めていた。
閉めようと近寄ったのだが伊作は足を止めると景色を眺めた。
恐らく躑躅であろう植え込みの一群に雪が覆い被さっている。
塀の傍には寂しげに紅葉の木が佇んでいて、雪の重さに耐え切れなかったのだろう。雪折れした枝が落ちていた。
其の枝も既に大分雪に埋もれて見え辛くなっている。
そういえば、此処の処ゆっくり外を見る余裕も無かったな……。
冬ともなれば医務室は俄かに活気付き忙しい。
風邪に罹る生徒が現れる所為だ。如何しても蔓延し易いので此の時期だけは医務室で必要ならば寝泊まりする程だ。
息を吸うと雪の匂いがした。
不思議なもので雪が降る直前の空気も同じ匂いになる。
伊作は地面に降り積もった雪に掌を静かに置いた。熱で雪が溶けて、雪の挟間へと流れていく。直に今の水は凍る事だろう。
濡れた手を袖口で拭うと戸を閉めた。
屋根に積もった雪を降ろしている音と下級生の歓声が聞こえた。
医務室の戸に着くと賑やかな中の様子が戸伝いに窺えた。
「只今戻りました」
「お帰りなさい。伊作先輩」
薬棚から頓服薬を手にした二年の川西左近が振り返る。
部屋には他に五年の不破雷蔵と竹谷八左ヱ門、四年の田村三木ヱ門に三年の富松作兵衛が居た。
三木ヱ門と作兵衛は先日まで別室に設けられた部屋で寝泊りをしていたので余った薬を返却しに来たのだろう。
此方は如何したんだろう?
見た限りでは怪我も病気もしていそうにもない。
「伊作先輩、すいません。此れは何処にあるんですか?」
左近は手にした紙を伊作へと手渡した。
其れは医師の新野の字で細かく薬が指示されている。
「症状が重そうだけど……此れ、誰への処方?」
「鉢屋三郎先輩用です」
雷蔵と左ヱ門が軽く会釈をした。
「珍しいね、鉢屋は風邪に罹るなんて」
「そうですよね。其れなりに自己管理してる筈なんですけど」
「所謂、鬼の霍乱だと俺は思いますけどね」
二人の言葉に相槌を打ちながら左近に三木ヱ門と作兵衛の相手を頼むと薬棚から必要な薬を取り揃えていく。
学園では風邪の蔓延を小規模にする為、重い症状の生徒を一箇所に集めるのだが特例で自室療養する生徒も居る。鉢屋三郎も其の内の一人だった。
素顔を晒したくないという本人の強い要望が考慮されていた。
そういった事情のある生徒には新野による往診が行われており新野の手が離せない時には委員長である伊作が行っている。
伊作は二人の前に指示された薬を並べた。
「薬は其々纏めて何用か袋に書き記しておくけど、一応此処で簡単に説明しとくね」
一つずつ床に置いた薬を指すと説明を施した。
服用以外にも罨法薬も含まれていた。
「喉の痛みが激しいなら此れを胸の辺りに貼ると好いよ」
「有難う御座います。……取り敢えず今日の夜は看病で寝ずの番になりそうです。新野先生にも様子見といてって釘刺されました」
「何かあったら医務室か僕の部屋までおいで」
じゃあ袋に書いとくねと言うと、筆を取ろうと机を見るなり伊作は動きを止めた。
机には何故か盥があった。
盥から真白いものが曲線を描いて山のように食み出ている。
不審に思った伊作が盥を引き寄せると其の山には赤い南天の実と緑の葉が左右に付いていた。
「雪兎だ」
伊作は瞬時に誰か持ち寄ったのか悟ると左近に声を掛ける。
「若しかして仙蔵来た?」
「来られましたよ」
左近は戸口で三木ヱ門と作兵衛を見送ると余った薬を専用の箱へと収めた。
「其の盥を先輩に渡してくれって。雪だから外の縁側に置こうとしたんですけど此処で好いと言われたので」
「分かった。彼が言うなら此処に置いとこう」
「此れ、雪兎なんですか?随分と大きいですね」
八左ヱ門の言葉に伊作は苦笑した。
「生きてる兎と然程変わらない大きさだよね」
「俺、善法寺先輩が言うまで雪入れただけだと思ってましたよ」
「僕も思った。でもほら此処に目と耳があるから」
伊作は雪兎の盥を床に置くと袋に説明を書付け容れていく。
後ろで雷蔵と八左ヱ門が左近を交えて会話に興じている。
其れを耳にしながら書き終えると笊に纏めて渡した。
二人と入れ替わりに保健委員の三反田数馬が、別室から頼まれ物を取りに来ましたと告げた。
口頭で伝えられた物を手分けして集めると全員で別室に運ぶ。
今は五人が此処で療養しているが先週は二十名近くの生徒で埋まっていた。寝ている生徒の様子を見ると伊作は左近と別室から医務室へと戻る。道すがら左近が尋ねた。
「立花先輩って去年も何度か雪兎を持って来られましたよね?」
「うん。正確には雪が降る度に呉れるんだ。あれぐらいの大きさは今回が初めてだったけれど」
「昔からですか?」
驚いた様子の左近に伊作はそうだよと頷いた。
「一年の時に僕が病気に罹って部屋で寝ていたら、御見舞いだって持って来て呉れたのが始まり。今は習慣というか、此の時期は忙しくて雪見する暇も無いから慰めに呉れるみたい」
あの頃は部屋が縁側の傍だった事もあり、布団で横になりながら雪遊びをしている友人達の愉しげな声を聞いていた。
独りで居る所為か心細く淋しい心持ちになっていると仙蔵が遣って来た。其の手には雪兎があった。
伊作はとうに忘れていたのだが、自分が頻りに此れを雪が降ったら作るんだと言っていたらしい。だから代わりに作ったぞと水差しが乗せられた盆に置かれたのだった。
「伊作先輩は雪が好きなんですね」
「そう、好きだよ」
当番を終えた伊作が寒い廊下を進んでいると仙蔵が居た。
駆け寄ると仙蔵の冷えた頬に手を当てる。
「何も此処で待たなくても……」
「医務室は騒がしいし、お前が相手にしてくれないから嫌いだ)
仙蔵は頬に触れている伊作の手を取ると甲に唇を当てた。
炯炯とした目が自分を見詰める。
「雪兎は如何だった?」
溶けて水となった雪兎から紅白の斑模様の椿が一枝現れた。
大きく作られたのは此れを入れる為だったに違いない。
「凄く嬉しかったよ。有難う」
そう言うと仙蔵は相好を崩した。
初めて雪兎を持って来た時、仙蔵の髪には多くの雪が付いていた。白い頬も掌も赤くなっていたが仙蔵は笑顔だった。
記憶に無い程度の言葉を覚えていて呉れて、尚且つ病気で寝ている自分の所に作って持って来て呉れた。心細い感情も重なり泣きそうになりながら、伊作は掠れた声で如何にか有難うと言えた。
「あれ程の大きさだから手が冷たかったでしょう」
「大した事じゃない、お前が喜べば其れで好い」
「馬鹿だな……仙蔵は」
お前が望むなら何でも全て呉れて遣ろうと口癖のように言う。
自分を掌中の珠だとも言う。
何故、其処まで自分を想って呉れるのか伊作には到底解らない。
解らないが伊作にとってもまた、仙蔵は掌中の珠なのは確かだった。